まだ26歳のころ、初めてフランスにわたり、友人数人とシャンパーニュ地方に行ったときに、知識ではあった「白亜の土壌」を実際に目の当たりにしてショックを受けたことがありました。
おそらく日本人であれば土は茶色とか黒色のものを想像すると思うのですが、シャンパーニュ地方の土壌は真っ白な粘土のようなもので「ここで本当にブドウが育つのか?」と疑問さえよぎったのです。
そのシャンパーニュ地方のセザンヌという小さな村でフランス最古のブドウの葉っぱの化石が発見されているのです。
化石は1億4千万年ほど前のものと推測されています。
これを皮切りに、ヨーロッパ各地の化石調査で暁新世(約6500万年前)や始新世(約5500万年前)の地層から多数のブドウの化石が発見されています。
暁新世や始新世の地層になるとヨーロッパだけでなく北米や東アジアにも広まったことがわかっています。
この発見から、
「古代にはすでにブドウは、少なくとも北半球では広い範囲で生育していた」
ことがわかります。
しかし、ブドウは4900万年前に始まったとされる氷河期を耐えきれず、多くは絶滅し、これに残ったブドウがあったのが現在のアルメニアやグルジア(ジョージア)あたりではないか、とされています。
感の鋭い人ですとここで
「ジョージアワインがワインの発祥といわれるのはこのためか」
と思うと思いますが、これはおおむねその通りでしょう(異論もあります)。
氷河期が終わり地球が再び温暖になると生き残ったブドウは中近東やヨーロッパ各地に拡大します。
ここから、ブドウはどのようにしてワインになったのか、ワインファンであればワクワクしませんか?
また、ブドウからワインになれば、そのワインを最初に飲んだ人がいつかどこかに必ずいます。それは誰なのでしょうか。
なかには「こんなうまいものを一体だれが最初に飲んだんだ」と軽いジェラシーすら感じている人もいるかもしれません。
ここでざっくりとみてみましょう。
ワインの起源|誰がワインを最初を飲んだのか?
氷河期後
植物に詳しい人であれば、野生のブドウは雌雄異株なことをご存知かもしれません。
おそらく氷河期を終えたころの人たちは野生のブドウの甘味を知っただろうし、これを知った当時の人は何とかしてブドウを栽培できないものかと考えたはずです。
しかし、実のなる雌株を植えても雄株がなければ実をつけない野生のブドウには苦労をしたでしょ。
これの栽培に成功したのが紀元前6000年ころとされています。
歴史学者(こうなると科学者も)が黒海とカスピ海のあいだのアララト山↑の新石器時代の遺跡からブドウの種子が集中しているところ発見したのですが、これが雌雄異株のものだったのです。
ここから「雌雄のどちらもないと実をつけない」ということを人類が解明し、ブドウ栽培が始まっているのではないか、との推測が成り立ちます。
人類はこうしてブドウ栽培を始めるのですが、ではそこからすぐにワインを造ったのかというとそうはいきません。
当たり前ですが、ワインを造るためにはぶどう(とそのジュース)をためておく容器が必要で、これが紀元前6000年ころにはまだできていなかったのです。
おそらくブドウ栽培を始めたころはなったブドウをそのまま食べるか、あったとしても干ブドウがいいとこだろうと考えるのが合理的でしょう。
その意味では、「ワインを貯蔵できる土器」を開発したひとが最初にワインを飲んだのではないか、と推測できるでしょう。
そして、本格的な容器は時を経てメソポタミア文明で散見されるようになるのです。
メソポタミア文明
イラク戦争の戦場となってしまったチグリス・ユーフラテス川を中心とするメソポタミア地域は、古代オリエント文明(紀元前3000年~紀元前300年)が栄えたところとして知られています。
ここの主役はシュメール人なのですが、シュメール人が住み着く前の紀元前5500年の先史時代の人々がいて、その遺跡の中から発見されたものにしっかりとしたつくりの土器があります。
もちろん
「土器があったからワインができたと推測できる」
という理屈はさすがに飛躍のしすぎでしょう。
ただし少なくとも採取してそのまま食べる原始的な時代から、
「農作物を貯蔵し、それに適した穀物栽培に踏み切ったのであろう」
ことは推測ができます。
そして遺跡からは交易があったであろうことも発見されていて、かなり文明は発達していたことがわかっていて、ワインはこのころにはあったのではないかとする説が有力です。
雰囲気的にはワインはできそうだと推測できるのですが、ワインファンとしては裏付けが欲しいところです。
資料として裏付けができるものとしては、メソポタミア文明のシュメール人に見出すことができます。
このころになると粘土に楔形(くさびがた)文字を残したものがわかっていて、解読技術によってほぼ完全にその全容がわかっています。
その中でも決定的なものは、やはり「ウルの旗章↑」でしょう。
この中に最古の酒宴図があって、これがワインなのではないか、とされているのです。
ここでユーザー様の中には
「まてよ?酒宴はわかるけど、酒は何もワインだけではないし、原始的なビールもあればヤシ酒もあるよね?」
と思う人もいるかもしれません。
あるいは
「酒ではなくてジュースの類かもしれないし、(水質が悪いので)おいしい水かもしれない」
と思うのも無理はありません。
もちろんここまでは推測の域ですし、本当のことはだれにもわかりません。
しかし、手掛かりになるものというと有名なハムラビ法典があります。
ハムラビ法典(紀元前1792年ころ 異論あり)には280条に及ぶ条文があり、その中になんと酒亭の条項までがあるのです。
この酒がワインだとしている書籍もあるのですが、ハムラビ法典にはブドウの記述がないためこれはどうもビールの原型(といっても発酵したパンだねのようなもの)なのではないか、との説も強いです。
ワインの起源をこのころに確定している説もあるのですが、手堅く考えればそこまで精度の高い推測ではないでしょう。
しかし、文明の発達度合いを検討すると「ワインはあってもおかしくない」と思わせるのに十分なものもあります。
このころにはすでに交易がおこなわれていて、その品目にワインのようなものもありますので、これがワインの始まりだろうという説の根拠になっているのです。
ただし、ワインといってもおそらくブドウをつぶしてそのままにしておいただけでの原始的な液体で、これがワインと呼べるものかどうかから検討が必要なものでしょう。
その意味では本格的なワイン文化の発達と普及の点では、もうすこし時を待つ必要があるのです。
エジプト文明
現在の日本人の感覚から言うと、イスラム圏のエジプトはワインとは縁がないと思う人は多いと思います。
しかし、私たちがイメージするワインの原型はエジプトで発祥したのではないか、とする説が有力です。
古代エジプトになると壁画やつぼなどの発見によってタイムカプセルのごとく当時の情景がはっきりとわかるのです。
古代エジプトといってもその期間は長く、紀元前3000年の初代王朝から3000年近くあります。
そして、初代王朝の前に、メソポタミアからワインの原型はもたらされていて、これを開花させたのが古代エジプトだとする説が有力です。
ナイル川の氾濫によって肥沃になったエジプトは農産物に恵まれ、主食になる大麦や豆類などの穀物類に果物のブドウもあります。
そしてこのころになるとブドウ栽培はナイル川沿いにある権力者たちの庭園内にも栽培され、アーチ状の棚仕立てでなされたことがわかっています。
ナクトの墓の壁画にははっきりと黒ブドウが棚仕立てになっていて、これを収穫している姿がわかります。
そしてその横には女性がブドウを踏みつぶし、そしてジュースを搾り取っていることがはっきりと描かれています。
その上にはアンフォラが置かれ、ここにジュースを移してワインを造っていたことがわかります。
面白いのが足踏みをする女性陣の上にひもじょうのものがあり、これを握っているところですね。
ぶどうはつぶすとぬるぬるするのでこれがないと滑ってしまいますので、それを防ぐためにあるのでしょう。
また、別の壁画ではブドウを踏みつぶすその横で楽器をもって演奏している姿もあるものもあります。
ぶどうをひたすらつぶす作業が続けば誰だって飽きてしまいますので、これをはやしたてて作業効率を上げているのでしょう。
おそらくこのころのワインは絞ったジュースを放置して、発酵してぶくぶく泡立つものを飲むという原始的なものだったのでしょう。
ただしどぶろくのように濁っていて当然果皮や種子も混じっていただろうし、上澄みは王様が飲んでその残りをその下の人が飲んでいたのでしょう。
面白いのが、このアンフォラには収穫年や醸造の時期、品質や醸造の責任者、ブドウ園のことまで記載されていて、ワイン造りを管理する書記の認証まで掘られているのです。
このことから、このころにはすでに現在の原産地呼称の原型が出来上がっていたことがわかります。
日本のワイン界の通説ではワインの原産地呼称はポルトガルが世界初だ、となっていますが、ここからはたしてこの説が正しいのか?という見地に立つことができます。
こうなると「法とは」の話にもなりますし、また、なにをもってワインなのか、なにをもって原産地呼称なのか、という話にも飛躍します。
いずれにせよ、ここまできてはじめて既存の常識に疑いを持ち、検討することができるのです。
ギリシャ文明
ワインの起源を、その発祥をメソポタミア、発展させたのがエジプト文明だとすると、これがギリシャ文明で一つの完成形を見ることになります。
ギリシャ文明が生み出した芸術の数々は、現在でも尊敬をあつめるものも多いのですが、そのくらいの文明が形成されたのであれば、ワインもそれに応じたものになるだろうと想像できます。
ワイン造りについていえば、アイリポスの住宅街からブドウの圧搾器が発見され、クレタ島では足踏み式のワイン醸造施設の原型がほぼ完全な形で発見されています。
ギリシャ文明と古代エジプトの大きな違いといえば、古代エジプトはワインは王侯貴族のものであったのに対してギリシャ文明でのワインは大衆化したものになったという大きな発達があります。
古代では、(おそらく得体の知れないものだったからでしょう)どの民族もお酒は神様と結びついていたのですが、世界で最も有名な神様はバッカスでしょう。
バッカスはローマの読み方で、ギリシャではディオニソスとかディオニュソスとか呼ばれています。
古代ギリシャのディオニュソスまつりはワインが庶民にまで普及し、一般生活で愛される存在となっていることがわかります。
ディオニソスはギリシャの神の中では新しいほうに入るのですが、これは話が難しくここでは飛ばしますが、不死の神性を獲得し、その間にブドウの樹を発見し、人々にブドウ栽培とその後のワイン醸造を教えたことになっています。
神様ではありますが神性を獲得する前には狂気に満ち、殺戮を行った記録があります。
もちろん神話なのでどこかからは逸話で、あるいは全部作り話かもしれません。
しかし、注目するべきはワインの神様であると同時に農耕神でもあるディオニュソスが狂気も持ち合わせているということです。
学者の目を通すうちにいくつもの変化を遂げたのかもしれませんが、ディオニュソスには狂乱と非理性、闇をもち、これが「ワイン=酒」の本質を見事に表していることは注目に値します。
つまり、ワイン(酒)は適量楽しめば健康と人生に彩をもたらしますが、摂取過多になれば不健康と狂乱をもたらします。
これがディオニュソスの本質だとすれば、現代に通じる精神論としても面白いでしょう。
バッカスやディオニュソスは居酒屋やバーなどの名前になることも多く、おそらく多くの人は
「何人もいる神様のうちの飲兵衛役」
程度の認識かもしれません。
今日の一般生活においてはどうでもいいことだし、気軽に追求できることでもないのですが、見方によっては壮大な文化論にもなるのが面白いところです。
古代ギリシャも後期になると都市国家が形成され、現在の民主政治の原型が誕生します。
文化も深化し多くの賢人が生まれます。
そして文化が発展することでそういった文化人と一般市民の生活圏は徐々に違ったものになり、ワインとその飲まれ方も次第に違いが生まれてきます。
文化人たちのワインの飲み方の象徴はプラトンの饗宴(シンポジウム↑)でしょう。
現在でいうシンポジウムは社会、経済の諸事情を偉い人が討論するものを想像されると思います。
しかし、もともとのシンポジウムは食事の後に長椅子に寝そべり、ワインを飲みながら崇高な話を議論をするものだった資料が多いです。
真面目な話もあったかもしれませんが、お酒が入っていれば酔いどれの世間話が主体だろうし、暴言を吐く人だっていたはずでしょう。
いろいろ想像は膨らみますが、煎じ詰めれば何とも楽しそうな集まりだったらしいことがわかっています。
実際の歴史資料にもプルタルコスの「食卓歓談集」やアテナイオスの「食卓の賢人たち」で読むことができるのでかなり細かいところまでわかっています。
ワインについてはその飲み方や種類、貯蔵方法やワインが体に及ぼす影響まで書かれているから驚きでしょう。
ここで注目したいのが、それらの飲みてがワインそのものではなくてワインの飲み方やその扱い方にまで知識人が触れていることでしょう。
ワインの飲み方にまでギリシャ時代の知識人が崇高さや洗練さを求めていることは極めて重要です。
例えばワインが常に大衆側だけのもので、乱暴に粗野に扱われるものであれば、現在のようなワインのスタイルもイメージも構築はされないでしょう。
ワインを飲む側が荒々しい飲み方をするのであればそれ相応の進化を遂げるはずなので、完成形もそれ相応のものになるはずです。
しかし、ワインを飲む側が文化論とか社会論を持ち出しているからこそ造りてはその期待に応えるべくワインの品質と向き合うことになるのです。
そして造り手がワインに磨きをかけ、徐々に洗練された結果がワインが多くの歴史に現れ、後年になって王侯貴族や修道院がその生産をリードするきっかけとなるのです。
では、日本は?
いかがでしたでしょうか。ここまでは世界でのワインの起源を探ってみました。
ここでユーザー様であればおそらく、「それでは、日本で一番最初にワインを飲んだのは誰なんだ」と想像を膨らませる人も多いでしょう。
中国人が日本人を観察して書いた「後漢書 400年ころ」には、「人の性(さが)は酒をたしなむ」との記載があることがわかっています。
この酒がワインかどうかはわからないし、歴史を鑑みるとワインよりもほかの酒であると推測するほうが合理的でしょう。
ただしこのころから日本人と酒のかかわりはあって、他の資料も検討すると日本人の祖先は結構な飲兵衛であったことがわかります。
縄文人はワインを飲んでいた?
一説では、縄文人はワインを飲んでいた、という説があります。
長野県井戸尻遺跡から発掘された土器から山ぶどうのタネが発見され、その後に同様の事例が散見されるのです。
これが「山ぶどうを仕込んでワインにしていたのではないか」という推測を呼んだのです。
もちろん、山ぶどうを土器に仕込み、つぶれたものから汁がにじみ出て、これがワインになった、ということは推測できますが、しかしワインを知るひとからみるととこれが怪しいことに気づきます。
というのも、前述の世界のワインの起源がメソポタミア周辺の温かい地域であったのに対して日本はそこまで温暖ではなく、むしろ冬の寒さは厳しいのです。
ワインは発酵を経る必要がありますので、温暖な気候のもとであればつぶれたブドウがかってに発酵を始めるということはありますが、これが日本の冬では難しいのではないかと推測できるのです。
また、山ぶどうは粒が小さく、かつ糖分が低いので、酵母が活発に働くにはその環境が悪く、その他の野生酵母にまけてうまいことワインにはならないのではないか、と考えるのが合理的でしょう。
縄文人がワインをのんでいたという推測は、ロマンチックではあるし、ワインファンであれば一つの話のタネにはなりますが、ここは話半分であいまいにしておいたほうがよさそうですね。
食用のブドウは?
では、ワインの前に、日本人はいつごろからブドウを食べたのでしょうか?
これは1590年に山科日記で有名な山科言経(ときつね)の日記のなかにブドウを実際に食べたとの記述があります。
また、この中で桑酒を飲んだとの記載もあって、気の早い人だとこれがワインだろうと思うかもしれませんが、これはワインではありません。
ひょっとしたら、日本酒などにブドウを付け込んでぶどう酒として飲んだ可能性は否定できませんが、仮にあったとしてもこれはワインではなく、混成酒に分類されます。
宣教師による持ち込み
では逆に、
「日本人がこのころまでにワインを飲んでこなかった、造ってこなかった」
という視点でとらえると、1563年に来日した宣教師ルイスフロイスは、日本にワインがなく閉口し、日本酒をお燗にして飲んでいるところをみて幻滅している記録が残っています。
これが直接の理由にはならないのですが、「ワインが造られてこなかったという仮説」の一つの理由にはなります。
ここからは私の個人的な考えなのですが(このように考える人は多い)、おそらくワインがヨーロッパで発達した大きな原因の一つに水質の悪さがあったのではないかと考えることはできます。
ワインはぶどうを介して造られ、この間に一つのろ過の作用を経て水質は改善されますし、酸やアルコールは抗菌作用や抗酸化作用がありますので、その意味では必要に駆られて発達した、という見方も出来ます。
逆に日本はいい水がどこでも手に入るため、わざわざ苦労してワインを造る必要もないし、ワインがそのほかの酒に比べて発達する理由が見当たらないのではないでしょうか。
織田信長が最初か?
日本で最初にワインを飲んだのは、織田信長ではないか、という説は根強いですが、これは怪しいかもしれません。
外国文化好きだった織田信長は宣教師が献上した手土産のワインを飲んだということになっています。
教科書に疑問を持つようで申し訳ないのですがこれは話半分程度でいいかもしれません。
このころの宣教師は、現在で言えば宇宙人のような存在でしょう。
宇宙人は言い過ぎにしても何言っているかわからないし、宣教師だからいい感じに腰が低いし、普通だったらいきなり信用するかといえば、そんなことはないでしょう。
その宣教師がいきなり織田信長に会えるかといえば、その間に何人もの役人を介しているはずで、役人の中には新しいもの好きな人も必ずいたはずです。
その中にはその液体はなんだとなって、どれどれ飲んでみようかとなるはずでしょう。
また、仮に織田信長だとしても、宣教師が持ち込んだ得体の知れない液体を織田信長が最初に飲むか?という疑問がわくのです。
普通であれば毒見の係がいて、まさに命がけでワインの毒見をし、数日たってもなんか元気っぽいから織田信長が飲んだ、と考えるのが自然でしょう。
(この宣教師はワインも含めて手土産がなく、そのため天皇に会えなかった、という説もあります)
その意味では織田信長の毒見役こそが日本で最初にワインを飲んだ人で、ワインファンがネタにするべきは名もない毒見役のAさんでしょう。
その後、秀吉になると博多でポルトガル船を訪れて、そこでワインをごちそうになったのは確かな記録が残っています。
珍しいものや目新しいものが好きなのは武将や知識人も同じで、このころになると
・貿易商人の鴨井宗室が牛肉とワインを食べる「南蛮茶会」という現在のワイン会の原型のようなことをし、
・石田三成が大阪で同様の茶会を開いた
ことがわかっています。
このように、日本のワイン文化の起源は、大衆的なものではなく、一部の特権階級の人を中心に細々とはじまり、徳川三百年の鎖国が破れて明治時代に本格的に始まったのです。
これはなかなか示唆的で、世界のワインの起源が一部の文化人や王侯貴族だけのものではなく、一般市民をも巻き込んだものであるのに対して、日本は最初から一部の特権階級の人にだけ始まった、ということでしょう。
これが1990年代に始まった本格的なワインブームまで引っ張っていた、という見方もすることができるのです。
当サイトとしては、ワインの一番の魅力はその多様性で、多様性とはまさに一般市民性だ、と考えています。
一部の貴族やビジネスエリートだけのものであれば自ずとどのワインも一様のものになるはずですが、実際には真逆の発展を遂げたのは、まさに市民性が根底にあるからなのです。
現在日本のコンビニやスーパーにはチリをはじめとする安価なワインが並び、その意味ではこの形こそが日本の多様性ではないか、と考えることもできます。
いかがでしたでしょうか。
人類とワインのかかわりをここでざっくりと検討してみました。
普通に生活していれば知らなくても何も問題ないし、ワインファンであっても知らなくてもワインを十分に楽しめます。
しかし、この起源をみたうえで、その後にどのようにして宗教と結びついたのか、どのように発展して現在のように昇華したのかを紐づけると、ひょっとしたらユーザー様とワインとの付き合い方がまた違ったものになってくるかもしれません。
今回は大変に長いコンテンツでした。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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