ガストロノミー(GASTRONOMIE)とは、料理やワインを含む食事全般を文化や芸術のレベルにまで昇華させることで理論展開をする考え方のことを指します。
もともとはフランス語で、現在では世界中の高級レストランで普通に用いられている言葉で、日本では「美食学」などと訳されることが多いです。
そして、ガストロノミーを提供するレストランのことをレストラン ガストロノミック(RESTAURANT GASTRONOMIQUE)とよび、ガストロノミックと単純に呼ぶこともあります。
もともと食事に関する理論展開なのですが、食事は追求すれば医療や環境や社会にも関連しますので、どこまでがガストロノミーなのかは論ずる人によってそれぞれです。
一般論としては、狭義の意味でのガストロノミーは料理やワイン、レストランなどを指し、広義の意味でのガストロノミーは社会や医療、環境までをもを指すととらえて問題ないでしょう。
悩ましいのが、ガストロノミーの本筋である芸術とか文化は一筋縄ではないし、とらえ方によってもガストロノミーの形はまちまちだというところです。
例えば、いかにも評論家が喜びそうなおいしさも美しさも独創性も兼ね備えた料理もあれば、おいしいステーキを焼き続け、追及した結果として芸術性まで兼ね備える、というものもあります。
ガストロノミーは一般の方であれば聞くこともない言葉でしょうし、普通に生活をしていたら知らなくても何の問題もありません。
一方で、ワインはやはり食事とのコンビネーションがその真骨頂ですし、ガストロノミーとは切っても切り離すことはできません。
ワインファンであれば、ガストロノミーの全体像をとらえることでより一層奥深く楽しめるでしょう。
ガストロノミー、ガストロノミックとは?
大衆性は求められていない?
ガストロノミーを検討するとどうしても高級店や高級ワインばかりになってしまうのですが、おそらく
「文化や芸術はなにも一部の金持ちだけのものではないし、大衆文化や大衆芸術だってあるよね?」
とお考えのユーザー様もいらっしゃると思います。まったくその通りです。
例えばヨーロッパであれば大衆的なカフェやバル、日本の居酒屋などは文化そのものでしょう。
しかし、いまのところそれらの大衆的な飲食店にはガストロノミーと呼ぶことはないか、あるいはほんのごく一部に限られています。
歴史を検討すると、ヨーロッパの食文化は貴族的なものと大衆的なものにはっきりと二極化されて発展された経緯があります。
そして、ガストロノミーは通常は貴族的な発展を遂げたほうの食文化の一部分を指すことが多いです。
では、ガストロノミーには大衆性は求められていないかというと、特に近年はそうでもないのがおもしろいところなのです。
三ツ星シェフのセカンド店
1990年代に、パリの星つきレストランのオーナーシェフが廉価版のビストロをオープンすることが流行った時期がありました。
それまでは、表現は悪いですが星付きレストランのシェフはガストロノミー以外の料理を下に見ていたところがあって、星付きレストランがビストロをやるというのはほとんどありませんでした。
これは今考えると、ガストロノミーの文化が染みついていて、そもそも同じ料理ではあっても全くの別物と考えていたのかもしれません。
しかし、当時二つ星だったギーサヴォワ(現在は三ツ星)が10坪程度の客席しかないレストランドレトワール(現在閉店)というセカンド店を出店し話題になります。
このお店は名前こそレストランですが、テーブルクロスはないし狭いしで、当時はとてもグルメ垂涎のシェフが手掛けるようなお店には見えなかったのです。
当初は気でも違ったかといわんばかりのメディアの対応で、本店が二つ星からなかなか三ツ星に昇格しないため
「三ツ星とるよりも先にビストロの星を取った」
と揶揄されるまでになるのです(店名のレトワールは星の意味)。
しかし、実際の料理のクオリティは高く、セカンド店とはいえ仕入先も同じだし、本店で修業したシェフがいるので、徐々に「そりゃおいしいだろう」と評判になります。
(極めつけが6区にあるレ ブキニスト↑で、後に超人気店になります)
その後もこの手の出店攻勢は続き、現在では、星付きレストランの中でも人気店になるとセカンド店を持つことが当たり前のようになりました。
これは何を意味するのかというと、マーケットの成熟によって、それまでは一部の特権的な人だけのものだったガストロノミーが、徐々に大衆に向けてかじを切ったということでしょう。
そして、この傾向はソムリエ業界にも続くことになるのです。
ガストロノミーとワイン
食事とワインは切り離すことのできないものなので、おのずとワインとガストロノミーの関係も密接なものになります。
もっともわかりやすいものはやはりワインと料理のマリアージュでしょう。
マリアージュはワインと料理を味覚の観点から検討し、さらに地域性や歴史なども考慮されるものなので、その意味ではガストロノミーの真骨頂といえるかもしれません。
マリアージュは検討していけば果てしないものですし、常に進化しているのですが、通常は人の味覚はいきなり大きく変化はしません。
そのため基本を押さえておけば十分ですので、構えずに付き合うのがいいでしょう。
ガストロノミーとワインで言えば、ここはやはりソムリエの出番でしょう。
最近はソムリエ業界も過渡期で、ほんの10年前であればソムリエコンクールの上位入賞者は高級店の出身者ばかりでした。
もっと前になるとさらに顕著で、決勝戦の実技試験になると王侯貴族の接待現場かと思うような設定も見受けられたのです。
しかし、ここ数年で潮目が変わり、決勝の舞台であってもレストランではなくビストロの設定だったり、ビールを食前に楽しむ設定があったりしますので、これが歴史の流れなのでしょう。
2016年の世界大会の優勝者のジョンアルヴィッドローゼングレンも、史上初となった女性のフランス最優秀ソムリエ-ル、パスカリーヌ ルペルティエ↑もビストロのようなお店で活躍されています。
(マダムルペルティエの全仏大会の決勝の実技は私がいままで見た中で最もレベルが高かったです。ユーチューブにもアップされていますのでご興味の方はご覧ください)
星付きレストランが経営するビストロの出現や、ビストロに勤務するソムリエが注目されるというのは、かなり時代を示唆しているといえます。
つまり、それらの一見すると高級には見えないようなお店にもガストロノミーを楽しむ顧客層が形成されているということで、時代の変化の端緒ととらえることもできるでしょう。
歴史の経過とともにガストロノミーの境界意識もなくなりつつあるのかもしれません。
分子ガストロノミー
同じガストロノミーであっても様々あって、そのうちで押さえておくべきは先鋭的な考えの「分子ガストロノミー」でしょう。
分子ガストロノミーは調理技術を科学的な視点で分析し、実際の調理に用いることを指します。
例えば肉の塊をステーキにするのにあたって、それまでの調理の考え方では
「フライパンを熱して強火で〇分表面を焼いてそれから~して~して」
と検討したうえで、何回もの技術の習得が必要なところを、分子ガストロノミーの観点で検討すれば、
「肉の内側が〇〇度になれば自然にミディアムレアの状態になるため、時間や火の強弱などの技術は検討材料にならない。」
というものになります。こうなると経験とか修練などは時間の無駄だといわんばかりでしょう。
それまでの調理方法を長年積み上げてきた人からすれば、なに喧嘩売ってんだとなりますが、とはいえ全く無視できるものかといわれればそうではありません。
むしろ生産性を考えれば分子ガストロノミーは
「おいしくできる調理法を多くの人に届けることのできる手法」
と考えることもできるでしょう。
分子ガストロノミーは、スペインのエルブリ(現在は閉店)で火が付き、その後のスペインレストラン界の躍進のきっかけとなります。
その後にイギリスのファットダックや北欧のマエモやゼラニウムに続くことになります。
ガストロノミーとミシュラン
ガストロノミーを知るうえで避けて通れないのがミシュランガイドでしょう。
ミシュランガイドはフランス語でGUIDE ROUGE(ギードルージュ 赤いガイド)と呼ばれることが多く、タイヤメーカーのミシュランが20世初頭から発行しているガイド本です。
おそらく最初は自動車の黎明期に
「全国に網羅的にうまい店を紹介すれば食いしん坊はいろいろ行くだろうし、タイヤもすり減って一丁上がり」
くらいの感覚で始めたのかもしれません。
現在では世界各国で発行され、2005年からニューヨーク版が、2007年から東京版、2009年には京都・大阪版が出版されました。
星なしの掲載から一つ星、二つ星、最高の三ツ星に分かれていて、これ以外にリーズナブルでお値打ちのビブグルマンや星はつかないけど期待しているという意味を込めたエスポワールという印もあります。
もともとがガストロノミーレストランのガイドなので、一般的なおいしい料理とはやや風合いが違います。
もちろん全くおいしさを無視したものはさすがに駄目ですが、おいしいだけではなく、ヒエラルキーには芸術性がもとめられるのです。
その影響力は絶大で、1900年から2007年までで3500万部を売り上げ、世界で最も知名度の高いグルメガイドです。
20世紀初頭からの出版となると、現在のようなメディアの発展とともにミシュランが受け入れられたということでしょう。
そのため、ガストロノミーの理屈とミシュランは切り離すことができないくらいに密接な関係にあって、ミシュランが「ガストロノミーとはこういうものだ」という不文律を醸成することに大きく影響を与えます。
これは仕方のないことですが、日本にはそもそもガストロノミーの概念がないか、きわめて一部の人のものでしたので、そこにいきなりミシュランが現れたものだから様々な意見を呼び、批判も根強いのかもしれません。
表現する側と受ける側
ガストロノミーの理屈では、シェフや給仕の方の「表現する側」と、それを楽しむ「受ける側(食べ手ともいいます)」に分かれます。
芸術の域にまで到達させることをよしとする考え方なので、一般的に言う「食べておいしい料理」とはやや風合いが違いますので、それを正当に評価できる受け手が必要なのです。
そして、この”表現する側”と”受ける側”は適度な緊張関係にあって、受け手は良い料理に称賛をすることだけでなく、そうでない料理にはしっかりと批判をすることでガストロノミーは深化してきたのです。
例外も多いですが、芸術家やプロのスポーツ選手などは、そのパフォーマンスで評価されますから、活躍すればするほど批判もされるものでしょう。
ガストロノミーの世界も一つの芸術として世に発表するわけですから、いい作品は評価される一方でそうでない作品は酷評されることもあります。
良い料理には独創性が求められる
ガストロノミーの理屈では、暗黙の評価基準として”良い料理”と”悪い料理”があります。
一般的な良い料理は、美味しくて見た目も良くて、ということに尽きるかもしれませんが、これではガストロノミーの世界ではいいとこボリュームゾーンでしょう。
ガストロノミーでは芸術性が重んじられますので、ヒエラルキーには創造性が最も重要視されます。
例えば「見た目もきれいで食べればおいしいんだけど、どこかで見た料理だなあ」という場合は、最高の賛辞を贈られることはありません。
逆においしさや見た目はそうでもないけど、アッと驚くような技法や技術を駆使した料理であれば、味や見た目以上の評価を受けることもあります。
例えばパリの三ツ星レストランで食事をした人であれば、料理のいくつかには「なんでこんな味わいなの?」というものに必ず出会うはずです。
私は初めて食べたパリの三ツ星の最初のひとさらに、ノリが綺麗に四角く切ってあり、その下にヨーグルトムースが添えてあるものが出てきて驚いたことがありました。
シェフには申し訳ないのですが、今食べてもおそらくおいしいとは感じないでしょう。
これはシェフにしか本心はわかりませんが、ひょっとしたら独創性(当時はまだ日本の食材は珍しかった)を重視した結果、おいしさや見た目を犠牲にした一皿なのかもしれません。
もちろん、味も見た目もいまひとつで、さらに独創性もないというのであれば、残念ですが酷評への一本道ということになります。
ガストロノミーのコスト
ガストロノミーは一つの作品として食事をとらえるものなので、どうしてもコストがかかります。
世界に誇る絵画を楽しむには絵画を楽しむ環境が必要なのと同様に、ガストロノミーを楽しむのであればその空間やサービスもそれなりに気を遣うことになります。
そのため食材以外にもコストがかかり、それらは当然料金に反映されることになります。
ここは誤解されやすいところなので丁寧に説明をするところなのですが、そもそものスタンスがガストロノミーであれば、コストの上昇は受け入れないとどこかに無理が出てきます。
食材ばかりでなく、シェフやサービススタッフの質や数は当然一般の飲食店とは違いが出てきます。
最近だと飲食店でも法令順守がマストですから、昔のように「修業させてやっているんだから」という理屈は通用しません。
それらの就労環境も整えることで、これも最終的には料金に反映されることになるのです。
ガストロノミーと年収の関係?
以前にテレビで引っ張りだこだったシェフが、自身のお店への酷評に対して、年収を引き合いに出してその評価そのものに疑問を呈したことがありました。
(テレビという公共の電波で年収で人を判断する考えを披露するのは、厳しい意見ですが全く賛成できません。そのうえでのこととおとりください)
もちろん真意はそのシェフにしかわかりませんが、やや手心を加えた見方をすれば
「ガストロノミーと一般の食事では考え方が違う」
ということを言いたかったのかもしれません。
一般の食事の概念でガストロノミーレストランを批評すると、どうしても齟齬が出てしまうのです。
ただしそれを根拠のない年収と紐づけることで世間に違和感を与えることになってしまったのでしょう。
当たり前ですが年収とガストロノミーへの理解はイコールではありません。
確かにお金があれば、行こうと思えばいつでもガストロノミーレストランに行くことは可能です。
しかし、お金があっても理解がない人はいくらでもいるし、その逆も私自身がたくさん見てきました。
テレビは印象的なところが抜き取られて編集されることが多く、そのため本人にすれば期待に応えるべくしたリップサービスだったのかもしれません。
本来であればもっと丁寧に説明するところを、マスメディアで一言二言で表現したところにミスマッチがあったのでしょう。
絶対的な理屈ではない
ここまで解説しておいて身もふたもないのですが、ガストロノミーやガストロノミック(ガストロノミーと統一します)は一つの考え方なので、絶対的な指標ではありませんので念のために押さえておきましょう。
このように、ガストロノミーは食事を芸術のレベルまで到達させることで理論展開をするものなので、これを家庭の食卓や普段の食事に適用することはありません。
高級なお店に多いことはその通りですが、前述のように、最近ではビストロでもガストロノミーを楽しめる所も少なくありません。
そのためガストロノミーの理屈を家庭料理やすべての飲食店であれこれ持ち出すことは通常はしません。
例えば気軽なカフェや居酒屋の料理に「個性が感じられない」といっても、さすがに歯車は合わないでしょう。
また、家庭料理にあれこれガストロノミーの考え方をもちだすと、せっかくの料理が台無しになる可能性があります。
万が一にも奥様があれこれ考えて作り上げた食卓に
「この素材は鮮度がいまいちだ」
なんていう旦那がいたら、血祭りにあげられるかもしれません。
日本でも浸透してきましたが、ミシュランガイドをフランスのウィキペディアで検索すると、「ガストロノミーレストランのガイド」と最初に説明があります。
(ウィキペディアを信頼するとして)これは何を意味するのかというと、ミシュラン側はガストロノミーとそれ以外の食卓を分けて考えているということでしょう。
元々の意味合いが一つの意見であり考え方なので、指標にはなっても振り回されるものではないと考えるのが健康的かもしれません。
まとめ
ガストロノミーは、まずは前提として一つの考え方なのですべての食生活に適用させるものではありません。
ご家庭にはご家庭のそれぞれの事情もあり、ラーメンや定食にはそれぞれの良さがあります。
そのうちの一つの考え方で「食事を芸術の域まで到達させたうえでする理論展開」がガストロノミーです。
食事全般を文化や芸術のレベルまでに到達させることで理論展開をしますので、どうしても一般生活とは乖離が生まれてくるのです。
いわゆる一般普通の生活では、料理であれば「おいしくて、安ければ最高」なのはその通りでしょう。私も全く同じです。
しかし、これと同じ感覚で芸術や文化を論じてしまうといつまでたっても表現者はそれ相応の深化しかしません。
そのためごく一部には、表現者と同じ目線でする評価が必要で、その意味では表現者と批評者は表裏一体の関係なのです。
ガストロノミーは楽しもうと思えば料理やワインの歴史、食材の質やその調理法、技術、ワインとのコンビネーションなど、奥深い世界が待っています。
ユーザー様にはぜひこのガストロノミーの世界とうまくお付き合いいただき、それぞれの楽しみ方を見つけていただければ幸いです。